井上義衍老師語録 ③
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 佛教とは何か (佛の正法を、我等が正法であると証明し得る教へである)


 宇宙及び人類の発生前の事を確実に知って居る者は居ない。
 然るに、此の不知不識にして生れた者が、知らずに世に今現存して居る。其れが今の我等である。
 
 此の最も明かなる不知不識の存在事実に着目し、初めて此の事を究めた人が、人類史上に於いて釈尊一人である。此れ人類史上の最大事である。
 
 此の不知不識の存在自体に徹底し、我等の正体たる法身自体に透徹し得て、遂ひに此の認識以前の根元を看破し、因果の法体自体の法たる実相が今の我等なりとの自覚を得、驚き奇声を上げたのが、釈尊の明星一見開発悟道即ち、佛正法の紀元節である。
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 云く、「奇哉奇哉、一切衆生は皆な如来の智恵徳相を具有す」との第一声を上げ、宣言された。爾来佛は、「三界唯一心、心外無別法、唯有一乘法、無二亦無三、心佛及衆生、是三無差別」等と云はれし。

 釈尊の如く、無自性の我等以外のものではない。即ち、一切衆生は元来成佛して居るとの事実を確認されたのである。即ち、認識以前の全存在の真性を開顕し、我等修行の正路を明示したのである。
 
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 道元禅師が曽て一大疑団を抱かれた様に、本来本法性、天然自性身なれば、何人も現在の時点に於いて満足し、安心の出来得る筈なるに、何故に、何故に実現は不可能なのか、ここが問題なのである。
 
 人間社会では、子供の成長即ち物心が付いたと云ふ時を智恵が付いたと云ふが、然し是れは認識以前の存在事実を観念化した錯覚の第一歩である。即ち、実物を観念に移行した事である。此の故に人は皆な自己の現実と観念との間に矛盾が生じ、混乱に混乱を重ねて如何ともし難い。
 
 此の観念化が迷ひの根元である。この事を一般人は知るよしもないし、例へ知り得たとしても、手の下し様がないのである。
 
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 其れは子供心の観念化の起りである、此の事を、子供自身が念の起きた事の自覚がないから、成人してからも本質即ち観念以前の事実を知る事が出来ない所謂である。故に人は、真実とは何か、如何に有る可きかと云ふ事が判明しない。其れ故に、思惟すれば思惟する程、混乱に混乱を重ねて果てしがない。
 
 此れが一般人類の迷ひの姿である。この迷ひを確実且つ真に明了にし得るものが佛教である。釈尊が不知不識の実体、法身自体に徹せられ、これを自覚された。此の自覚の時、始めて認識が起きた。この時点に於いて、観念が錯覚を起して迷う事実をも徹見されたので有る。
 
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 此の故に、無明の煩悩の根元を看破し、これに依って本来の自己に徹する道を明快に教示され、これに依り、何人も自己の本家郷に安住し得る人類史上唯一の正法を教へられた。
 
 正法とは、我等が釈尊と同様に法身自体に徹し得て、其処から釈尊の教への正しさを立証し得るが故に、正法と、かく言ひ切れるのである。


 法性自体に徹し得れば、無性たる衆生の実体全体を其の儘に是認し得る。即ち、佛事門中不捨一法、佛法を論ずれば一切現成とも云ふ。全く宇宙発現の原点たる因縁所生法、無性の自性である。此れが現実の存在、事実なのである。
 
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 是れ、人類が真の平安を得る最大唯一の教へ、これを佛教と云ふのである。
 我等の永遠の生命を把握せしめ得る最大唯一の大道である。佛智見に開示悟入せしむる道である。

                  「夢想 第七集」より。これは義衍老師の自筆原稿です。