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| 大正元年(19才) |
府中上山長谷寺、吉津孝仙師初会に於いて立職、首座となる。
(広島県三原市宗光寺、岸月潭老師西堂)
立職の式直後、父より「蚯蚓斬ッテ両断トナス。仏性那頭ニカ在ル」と問われ、返答に窮し責めらる。その後三年の間、片時も念頭を離れず。
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| 大正3年(21才) |
母マサノ(玄焉自覚大姉)逝去。
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| 大正4年(22才) |
東京芝青松寺僧堂(佐藤鉄厳)に安居。隠寮に在った北野元峰老師(のち大本山永平寺貫首猊下)に相見す。的々相承し来る本物の仏祖師に初めて出会う。この時法は継がずといえども、畢生の大事となる。禅師の平常心是道なる風格、人無きが如き自由無礙の提唱、「本来人是何者」の公案を与えられて、脇目もふらず参禅する。疑団は益々つのり来たる。
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| 大正6年(24才) |
浜松龍泉寺、松原嶺寿に転師。
この頃、先輩や同学の諸士と盛んに論じ合い、論には負けを知らなかったが、疑団は止まず、しきりに北野禅師の足下を思う。
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| 大正7年(25才) |
名古屋覚王山日泰寺僧堂(上田祥山老師)に安居。隣単の者さえ知らず参禅、工夫専一。師家の公案は与えられるままに如何ほど解き進んでも、惑いは去らず、ついにこれを放棄して一人坐し、やがて諸問の真意の一つなることを勘破す。再度参じて、面前即座に諸案を解き放つが、却って師家の棒を喰らう。
その年の臘八摂心、たまたま堂外の垂布の翻るさまに風動幡動の則に遭遇し、まさに性見するを覚ゆ。
そうして、いまだに春か冬かも思いおこさぬのだが、一日再三誘われて意ならず市内新盛座へ出掛けて、観劇の最中、俄かに忘我して満員の観衆もなく、自己もなく全く前後を忘ず。明星一見の大事、絶学無為の真相を確証し竟る。大悟。
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| 大正9年(27才) |
悟の点検を乞うた縁により、杉本道山禅師に従い朝鮮京城別院へ赴く。翌年帰国。帰国後『大乗禅』により、原田祖岳、飯田 隠両師の垂示に接し、原田老師は法理の審しさ、飯田老師のその境涯を思うさま伝える自在さに、吾が事のように感嘆する。
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| 大正10年(28才) |
小田原最乗寺に杉本道山禅師に随身安居す。この折、大本山總持寺後堂梶田慧舟老師(宇治興聖寺回天和尚の印可)に独参し即座に印可さる。
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| 大正13年(31才) |
浜松龍泉寺に住名を出す。あくる年、妻芳恵を迎える。
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| 昭和元年(33才) |
この年より長兄義光師の国泰寺禅会へ師家として招かれ指導にあたる。あたわざる勢いにて、広島仏通寺の大中大乗老居士、広島高等師範教授、学生等多数参禅す。
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| 昭和2年(34才) |
静岡県磐田市見付福王寺に巡化中の原田祖岳老師に独参し、印可証明を受く。
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| 昭和3年(35才) |
呉市神応院に於ける夏期参禅会に、飯田 隠老師と共に講師として招せられ、五位を講ず。その後飯田 隠老師(高槻、少林窟)に参ず。 隠老師は公案の頻出を戒しめ、逐一追及したが、験ずればただちに応答し、手が付けられず暫くは匙を投げて放置し置いたと、後長兄より聞く。
即ち鑑覚の病のあることを知って、しばしば少林窟に参ず。峻烈の 隠老師は、矢庭に病を引き抜かんとし如意を振るう。却って固く握る。まことに苦しい参学であった。
浜松の自坊から、彼の少林窟摂心は欠かさず通い、また西の宮の俗宅に病臥の床へ参じ、廓然無聖の悟がありながら、如何にもならぬその事の為に、身は痩せるばかりであった。寺も生計も他はすべて顧みず、専一に参ず。黙々として従ごう芳恵夫人の労苦もまた筆に尽くし難いものであった。
刻苦光明、一朝龍泉寺法堂西室中に坐し、頬白の一筆啓上の声に鑑覚の病が癒えたのは、余程のちのことであった。
晋山を賀して、 隠老師は次の一偈を下さっておる。
「刻苦光明幾年月、証得蘿屋雪後松、看々竜泉噴出地、象王行処絶孤跡」
此道に比類なき明徹と、空前の説得力は、この血涙の幾歳月、至道参学のたまものである。
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| 昭和6年(38才) |
龍泉寺晋山結制。同時に山内接会を置き、毎週土日の一泊参禅は三年の間続く。
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| 昭和7年(39才) |
浜松に禅会を開く。参禅者、粂川薫(浜松郵便局長)、中村春次郎(信愛学園校長)、内田みつ(内田病院女医)、村田義人(高等工業教諭)、菊田熊太郎(浜松郵便局課長)=(当時)等諸氏中心。昭和10年天林寺(浜松市山下町)禅会となって戦争で中断するまで続く。
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| 昭和18年(50才) |
袋井市可睡斉僧堂へ準師家(単頭)として迎えられ、昭和29年まで雲水の教育指導にあたる。
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| 昭和21年(53才) |
6月2日芳恵夫人(41才)逝去。14才を頭に五男子あり。みな出家し、天下の鬼道場小浜の発心寺、原田祖岳老師の会下に、25年長男哲玄をはじめ五子みな参ずること多年。後みな大本山總持寺の道場に弁道専一なること多年なり。
子らに「お父さんの意に随い、みな立派なお坊さんになるように」と言い置き、師(義衍)の「大丈夫か」の問いに答え、「私は大丈夫です」と笑うて逝く。(芳庵恵順大姉)
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| 昭和21年秋 |
菊川禅会を森本繁樹(酒造家)、鈴木一作諸氏により開く。後、山内よし枝、菅沼貞三(慶応大学教授)、小島操(静岡薬大教授)等諸氏参じ中心となる。のち掛川禅会となる。現在掛川市子隣少林寺会場。
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| 昭和23年(55才) |
浜松禅会再開。小城栄太郎(天龍堂主人)、水野欣三郎(二紀彫刻部審査員)、河合茂(浜松ユネスコ協会会長)、菅沼五十一(詩人)、高橋幸男(日進機械社長)等諸士により。『詩経』、「桃之夭夭」からとって、『夭夭会』と名付く。中心者の常に参ずる熱心な禅会で、夜の明けるのを知らず質問の止むることなし。得道の者また多し。
同年後妻を迎える。かねて法縁があったが、この頃説得の山内は困窮はなはだしく、遺された五人の子らに婦人の手の要ること思い来る。
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| 昭和25年(57才) |
小浜発心寺僧堂(師家原田祖岳師)より井上泰禅(浜松常久院)、上参郷嶺泉(袋井市香勝院)、滝沢衡岳(袋井市光照院)、島田本妙来たり掛塔す。
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| 昭和26年(58才) |
原田雪溪(小浜市発心寺)、末永玄鳳(小笠郡慶用寺)掛塔す。
同年東京禅会(真風会)を開く。粂川薫(前六大都市郵便局長)、菊田熊太郎、同夫人穂末、篠塚俊子、中島浩(東京都立病院副院長)、同夫人等諸氏により。
その後東京杉並に薫風禅会開かる。藤岡保子(皇后美智子妃殿下のお手習いの先生)大姉により。その縁により、正法眼蔵全巻を写経し寄贈される。又、茗風会、小岩禅会、所沢正法禅会等、次々に開かれ、昭和55年まで続く。
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| 昭和27年(59才) |
この年より現在に至るまでの掛塔僧は次の通り。青野敬宗、坂本宗謙(岐阜福昌寺)、板槁興宗(越前市御誕生寺、前大本山總持寺貫首)、萩原哲禅、藤井徳禅(安房日本寺)、西月仙(京都一様院)、森祖道、高嶋大順、関口量道(小浜市天養寺)、赤井哲牛、宮本照山(愛媛少林寺)、亀井弘道(長野瑞光寺)、中谷浩然、高崎東源(福井吉峰寺)、小出暁光、伊藤立真(静岡龍泉寺)、芦田貞明(金谷宝蔵寺)、川上雪担(新潟東山寺)、河野量基(福島入水寺)、嶋田竜峰、山岸(蛯原)真乗(浜松市庄内龍泉寺副住)、阿部承宗(長野円通寺)、高綱玄参(静岡香勝寺)、木村大玄、池谷琇光(静岡鷲栖院)等諸師、その他会下に参ずる者五十余名に及ぶ。( )内は住職地。
大法の伝わるこの地、無為真人の足下へ各処から伝え聞いて、参学ひとすじの雲水たちが集まって来たが、その多くは半信半疑であり、或いは孤狸の類か叩きつぶしてやると乗り込んで来た者もある。老師の説得にあって初めて法の何たるかを知り、即ち掛塔参禅す。それは往昔の古叢林を彷彿させるものであった。或いは夜を徹して坐り、井の上に坐す者、死を決して断食摂心の後悟を得る者、数聞かれる。常摂心と托鉢、四六時中の独参をもって規矩とした。
破門の形で旧の法縁を断ち切って来る者も多く、唯一無二の法をつなぐに最も純粋の場といえども、諸般の窮迫するこの歳月、托鉢のみによるその暮らしはなかんずく厳しいものがあった。
たまねぎ一つを卓に載せ菜とし、互いに破片を剥ぎ合って食べたという話等、その枯淡さ。しかし不平を漏らす者は絶えてなく、純一無雑専一の工夫者のみであった。
そのうち近くに黄檗の空寺(実性寺)のあるを借り受け、また袋井の龍巣院禅堂を借り、後蒼竜窟と名付く。
爾来、雲衲及び居士大姉一般参禅者の去来は今日に至るまで絶え間なく続いているのである。
只管の消息はかく相続され、禅門にかかわらず、一切の宗教、一切の思想上に於いて極め窮した者たちが遠近を問わず会下に参じ、真の教えに接し、かつて救われざる者はない。
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| 昭和28年(60才) |
浜松信愛学園にて全国大会開催。
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| 昭和29年(61才) |
安房乾坤山日本寺(藤井徳禅師)に於いて夏期摂心会を行う。
31年まで。
11月14日、龍泉寺に於いて還暦祝賀会。水野欣三郎氏製作の老師胸像を奉呈。
それより現在に至るまでの禅会、摂心次の通り。
龍泉寺参禅道場摂心会=(井上哲玄師)毎月第二日曜、摂心会五・八・十二月五日間。夭々会=(浜松・会長水野欣三郎氏)。信行社禅会=(浜松・会長鈴木清蔵氏)。掛川禅会=(掛川・会長森本繁樹氏)。真風会=(東京・会長粂川薫氏)。薫風会=(東京・会長藤岡浩子氏)。正法禅会=(所沢・会長引間大雄師)。茗風会=(東京・会長小松光子氏)。小岩禅会=(東京・会長田代景子氏)。大阪禅会=(大原野・会長有田隆氏)。川越禅会=(埼玉・川越青年仏教同志会)。吉祥寺禅会(東京・吉祥寺)伝灯会(埼玉)。広島禅会=(松本・二宮宅)。
「服と不服とは医の咎に非ず」と、わが老師の説得は常に学人の得心の行くまで行われ、しばしば時の移るのを忘れる程である。かつては忽ち棒が飛んだというが、一つには 隠老師の説明の欠けるところに苦しまれてからのことで、平常所作をただちに悟の真相に向ける、極めて自在な独自の境地を開かれている。
提唱は正法眼蔵、碧巌録、心銘、坐禅儀等多種にわたるが、およそ無縁のものまで手当たり次第に、尽きるところがない。学人に応じて自在に用い、激しく千変万化する手段は、静かなお声ではあるが、舌頭に万軍を殺傷する力がある。
無為の真人ここにあり。
ある剣道範士が老師のお姿を拝見して、いかほどもつけ入る隙がなかったと感心したという本当の話がある。
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| 昭和32年(64才)11月 |
浜松、信愛学園にて全国大会。
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| 昭和38年(70才)12月 |
藤岡保子女史及び参禅者各位檀信徒の寄付により隠寮が建てられる。
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| 昭和39年(71才)1月 |
龍泉寺を法嗣哲玄に任せ引退。
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| 昭和41年(73才) |
提唱、垂示録『夢想』誌発刊。
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| 昭和42年(74才)4月 |
各地禅会参禅者の交流と正法宣揚のため、無相会発会。 第一回大会=埼玉県所沢市、長青寺(引間大雄師)に於いて。
7月、権大教師に任ぜらる。12月、黄恩衣を特許さる。11月、龍泉寺に於いて無相会第二回大会開催。
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| 昭和43年(75才) |
2月28日付けをもって、名古屋市、覚王山日泰寺専門僧堂師家に任ぜらる。5月5日、祝賀会。於龍泉寺。
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| 昭和44年(76才)1月 |
龍泉寺参禅道場に各地参禅者及び檀信徒の寄付により禅堂建立さる。
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| 昭和45年(77才)8月 |
ニューヨーク禅センター中島師の要請により海外布教のため、渡米。五男貫道随行。
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| 昭和46年(78才) |
10月20日、富山尼僧堂師家に任ぜらる。11月、再度の請により渡米。池谷琇光随行。
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| 昭和48年(80才) |
11月10日、大教師に任ぜらる。
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| 昭和49年(81才) |
4月6日、赤紫恩衣を特許さる。
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| 昭和52年(84才)4月 |
龍泉寺にて眼蔵会開講。毎月一回提唱。55年7月まで三十六回に及ぶ。
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| 昭和53年(85才)10月 |
海外布教のため、渡仏。随行、長男哲玄、宝全寺上杉禅祐、河合茂。
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| 昭和55年(87才)6月 |
大本山永平寺二祖国師七百回大遠忌に拝登。
10月5日、龍泉寺にて第五回無相会全国大会。全国各地より集い来る会下の者二百余名に及ぶ。
御本寺龍秀院より中興開山の称号を賜う。
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| 昭和56年(88才) |
昭和50年以来五回にわたり、NHK教育テレビ「宗教の時間」にて真意を語り、各方面に多くの反響をよぶ。
現在までに嗣法の弟子、芦田貞明、井上哲玄、井上義寛、井上貫道、山岸(蛯原)真乗、池谷琇光、粕谷道稔、小村良寛の八名。
得度の弟子、福田素圓、長谷川文丈、菅沼魯道、林道雄、森祖道、藤野悦道、国友良関、小林超道、粕谷清隆、杉本玄光の十名。
俗弟子、水野魯宗、森本規外、服部玄价、内山徹心、江川潔道、野末妙香、滝本妙円、江田卓宗、坂井透関、小西道寛、笠原賢道、大谷興禅、河野瑞洋、滝川晁道、木村睦宗、藤岡浩然、金野芳秀、梁生真、田中素淳、海野浄稔、斉藤秀房、福田清美、松本徹心、松本良香、松本竹芳、新宅道円、新宅瑞秀、堀辺朴魯、内山明道、山内順芳、桐田明円、松永覚順、佐藤道隆、小島道林、鳥居道隆、丹下了然、塩崎明州、新井妙順、中谷元宗、桜井大機、三好妙音、増田素見、河野浚雲、大久保湛堂、府川弘道、府川慧明の四十六人。
3月2日(満88才8ヶ月) 遷化さる。
釈尊の生涯を思わせる説法、この道の為に生涯を尽くす。
遺偈 「虚空打空 幾百億年 好天好天 我行脚日」
3月8日密葬(三仏事) 会葬の人々、およそ五百名を下らぬは老師の威徳の大なることが偲ばれるのであった。
4月26日本葬(七仏事) 全国各地より参集した僧俗は八百人程に及び、午前十時に開式された本葬は午後一時半に及ぶ。近来まれに見る実に厳かなものであった。
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